坂道発進、機会費用、ジャグジー
例えば20年後のことを想像するには、まず20年前の事を考えればいいという。
というわけで20年前の3月の話。大昔なようで、ついこの前のようでもある。僕は自動車教習所にいた。
推薦でとっとと進路が決まっており暇だったので免許でも取りに行くことにしたのだ。皆が英単語を詰め込んでる頃、僕は坂道発進に難儀していた。
ある日、教官が教習中にふと呟いた事を僕は今でも覚えている。彼は大した意味もなくそれを独り言として呟いたのかもしれないし (きっとそうだ)、もしかすると教官の姿を一時的に借りて何者かが発したある種の啓示だったのかもしれない (0.0000....1%くらいの確率で)
とにかく彼はこう言った。「車って、見てる方に曲がっていくんだよな」
今から20年後の3月の話。2039年3月。2039年だって。ハハハ。ウケる。
僕と妻は運良く生きてたら60歳前。アラカン。運良く会社が潰れたりクビになってなきゃまだ働いてる。やれやれ。息子はもう成人してて何かの間違いで孫なんてのがいるかもしれない。たぶん僕の父と母はもういないだろう。
ところで話は変わるけど「選択」という行為について (あるいは「機会費用」という概念について)
何かを選ぶことの本質は他の無数の選択肢を捨てることだ。これは言い換えれば「他の無数の選択肢の先にあった未来を殺す」ということである。
僕たちはこれを死ぬまで一秒一秒繰り返している。そりゃすり減るわ。いったいこれはなんの罰なんだろう。
僕がこれまで選んで開けてきたドアが全部正解だったとはとても思えない。でも僕はいま生きていて、妻がいて、息子がいる。今もし20年前にタイムスリップしても、また20年後ここに立ってる自信がある。そういうものだからだ。株の含み損は今よりちょっとは少ないかもしれない。
なぜそう言えるのかというと、「彼」の言い方を借りれば僕がその未来を見ていた (見ている) からだ。そして日々知らず知らずの選択を繰り返しながら他の未来を殺してきた。要するに今と違う自分など宇宙の歴史の何処を探してもいないのである。すごい。
自己肯定した上で、改めて20年後を考える。そこには腹筋の割れた白髪のちょいワル親父が20代の女の子を両脇に侍らせながらジャグジーでシャンパングラスを傾ける姿が...無い。無いわ。それでいいのだ。たぶん。